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高須家のなりたち

徳川家康に施した懸命な介抱が、
高須家のはじまりとなった。

本能寺の変が運命を変えた!?

高須克彌が生まれた高須家は、愛知県三河にある一色町。代々、医を生業としてきた家系だが、そのはじまりをたどると、史上最大のクーデターとも言われる「本能寺の変」につながる。
時は天正十年六月、京都本能寺に宿泊していた織田信長を家臣である明智光秀が襲撃、信長を死に至らしめた。天下を確実にするために光秀が次に狙うのは、この時少数のお伴だけを連れて堺にいた徳川家康。狂気と化した光秀の襲撃から逃れるため、家康は自らの居城のある三河の岡崎を目指した。光秀の追手をかわしながら三河湾を船で渡り、命からがら上陸したのが現在の愛知県一色町。傷を負っていた家康に、この地でまさに運命的な遭遇をしたのが、高須家の祖となる小四郎だった。
小四郎は傷を負っていた家康を懸命に介抱。その甲斐あって、家康は体調を取り戻すことができたのだ。大げさに言えば、この時家康と小四郎が会っていなかったら、歴史は大きく変わっていたのかもしれない。家康は感謝の意として、小四郎に庄屋としての地位と「高須」という苗字、家紋を与えた。その後高須家は、徳川家のご威光を受けながら、医業をもって三河の地で栄えることとなった。そして、家康が植樹したという「家康お手植えの松」が、今も高須病院で大切に残されている。

明治維新は、高須家にも維新を起こした。

当時の愛知県医師会当時の女子医学生たちはバンカラな男装して男性医学生に混じって学校に通ったそうだ

300年もの繁栄を築いた徳川幕府も終焉となり、時代は明治を迎えることになる。当初、明治政府は家業として医業を営んでいた者を「従来医」とし、その後も医業を営むことを許可した。ただし、それは一代かぎり。二代目からは開業医試験に合格するか、帝国大学医学部で「医学士」になることが義務付けられた。つまり、資格がなければ医師になれない時代が日本にも来たのだ。

江戸時代を通じて医業を行ってきた高須家にも、この文明開化の波は押し寄せてきた。その時に登場したのが、高須克彌の祖母“高須いま”である。時代の先を見据え19歳で上京、これまでとは異なる近代医学を学ぶために東京医学校で学び、当時日本でまだ40人たらずしかいなかった女医となり、故郷に高須医院を開業した。これが、今も一色町にある高須病院の元祖である。
当時、人力車に乗って往診するというのが、偉い医者のスタイルとされていた。偉い人は、偉そうにしているということである。しかし、高須いまは、患者のために合理的であることを優先。速く走れて疲れないからと往診はいつも自転車で出かけた。国産自転車のない時代、外国製の自転車に洋装で乗ってさっそうと畦道を走る姿は、地元の人たちにはなかなか理解されなかったという。古い概念を打ち崩し新しい価値観を創ることには、いつの時代も大きな反発が生じるものなのだろう。「常に先駆者たれ」。高須克彌に大きな影響を与えることとなるこの言葉は、高須いまの言葉だった。

高須家にとって、100年ぶりの男子誕生。

女系家族だった高須家は、いまが後継ぎとして婿養子をもらい、生まれたのが克彌の母“高須登代子”。登代子も婦人科医となり、隣町にある松崎医院の五男で内科医の“省吾”を婿養子に迎えた。高須克彌は、高須家にとって100年ぶりの男子誕生だった。しかし父は、まだ克彌が中学一年生の時に亡くなった。その時、父の兄弟に言われた言葉がある。「志し半ばで倒れた父を持った息子は、父のエネルギーを引き継ぐから大成できるぞ。ラッキーだと思え」。高須克彌の有り余るエネルギーは、こうして先祖代々から受け継いできたものかもしれない。

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