学生時代
空手、アイスホッケー、山の診療所。
毎日が新たな体験の日々だった。
学業よりも運動の日々。
高校時代昭和大学空手部昭和大学アイスホッケー部
高須克彌は、地元の中学校を卒業し名古屋の有名私立「東海高校」に進学した。2年生で私立医学部進学コースに進む。実は、この頃の夢は漫画家になることだったが、医師の資格だけは取っておこうとなったのだ。そして、昭和大学に入学。
この大学時代に、高須克彌は勉強だけでなく様々なことに積極的に取り組んでいく。そのひとつが空手部入部。医学部の学生は手を大切にする習性があり拳を鍛えない。そんな中、高須たち昭和大学空手部の部員たちは鍛錬を重ね、関東の医学大学では最強となった。しかし、彼らの向上心はそんなところでは満足しない。全国でもトップレベルの拓殖大学や国士舘大学に勝利するくらい強くなることを目指し、勉強よりも練習に励んでいた。後年、高須克彌が格闘技K-1のリングドクターを任されたのも、この頃の体験が活かされているのかもしれない。
また、なんでも一番を目指す性格が顕著になったのもこの頃かもしれない。経験者が少ないスポーツでなら、一番が狙えるのではないか。そう思ったらすぐに実行するところも高須克彌らしい。いきなり昭和大学にアイスホッケー部をつくり、自ら初代主将になってしまったのだ。専門の指導者もいない中、高須克彌は一生懸命練習に励んだが、一番になるという夢は、思った以上に遠く険しいものだった。しかし、その夢を受け継いだ後輩たちは、2010年度東日本リーグ優勝という快挙を成し遂げたのだった。
ボランティア活動にも積極的だった。
一方、長野県白馬岳の診療所で、山で遭難した人や病気になった人を治療するボランティアクラブにも所属した。ボランティアには昔から関心があったと言う。自分がいじめられた幼少時代を過ごしたからこそ、困っている人の痛みを感じやすく、助けたいという思いにかられるのだ。そして、今でもこの頃の気持ちを忘れることはなく、1995年の阪神・淡路大震災の時も2011年東日本大震災の時も、医療ボランティアとして現地に駆け付けている。
かけがえのない人との出会い。
大学院では、骨や関節の機能障害を治療する整形外科を選択。高須家に整形外科医がいなかったのが、その志望理由だという。部活やサークルに明け暮れているような学生時代だが、“やる時はやる”を見事に実践。本来は4年生で仕上げる博士論文を1年生の時点で終わらせてしまっている。その論文『幻肢痛の研究』は権威ある医学雑誌に掲載された。
一方、かけがえのない出会いをしたのも大学時代。授業をさぼりがちだった彼は、同級生で優等生だった女性からいつもノートを借りていた。そのノートがあったからこそ、学業のほうでも優秀な成績を残せたのだ。そして大学卒業と同時に、その女性シヅと結婚。以降、高須クリニックを二人三脚で営んでいくことになる。
「自分を楽しんでいますか」。高須クリニックのキャッチコピーであり、高須克彌の生き方を表す言葉は、実はパートナーであるシヅが考えたもの。この大学時代の高須克彌の何にでもチャレンジして、自分の可能性を楽しんでいる姿を見ていたからこそ、生み出された言葉なのかもしれない。